コラム

  

母語と母国語(ウリマル)のはざまで —— 李 良枝(イ ヤンジ)の場合 ——  2017/11/9 記

 僕は富士吉田市に生まれ、高校卒業までをその地で過ごしました。富士山の東すそ野標高800メートル程の高地に位置する人口5万人ほどの小さな市です。昭和40年代の当時もそしていまも富士急行のローカル線が東京とを繋ぐ唯一の鉄路でした。富士登山や富士五湖観光の中心地として夏場は多少の賑わいを見せていましたが、主たる産業は家内工業を中心とした絹織物(と言っても絹は僅かで、人絹と呼ばれる化学繊維が主でした)でした。富士急ハイランドができ、富士山が世界遺産となり、現在は観光地としての賑わいを取り戻してきています。

時は遡りますが、僕が小学生のころ(昭和37年)でしょうか、富士浅間神社を擁す新倉山という裏山の中腹に戦争で亡くなった人々を祀る慰霊塔(僕たちは忠霊塔と呼んでいました)が建立されました。小学6年生の時クラスのハイキングで忠霊塔に登ったのを覚えています。担任の清水先生が絹の布切れを持参し、「この布に蝮の牙を引っかけて折って、蝮を捕まえるんだ」と道すがら生徒に話し、その通りになったことを覚えています。蛇が嫌いな僕は、平気で蛇を弄ぶ先生を「凄い」と感動したのを覚えています。生まれて初めて蝮に触らせてもらいました。しかし、あの冷たい感触が指先にいつまでも残りやっぱり気持ち悪かったです。

      Atacched File        

先生は生徒たちの人気を博していました。しかし先生は特定の生徒を贔屓し、また放課後女生徒のテイラーのお父さんが教室で先生の洋服の寸法を測っている光景を見てから、僕は先生のことをあまり好きにはなれなくなりました。ここには書けないこともあったその先生はもう亡くなり、あんなに大きく見えた先生は実は小柄だったよと小学校時代の友達から教えてもらい、複雑な心境になったことを覚えています。

 その慰霊塔にヤンジ枝さんの碑が作られたことを知ったのは、去年平成28年5月のことでした。朝日新聞に載り、そしてFace Bookでも流れてきました。それは大変光栄であり、驚きでした。あの『』を書いた人が僕の高校の後輩だったんだ、と。李さんは第100回芥川賞を『由煕』で獲得し、1989年に講談社から『由煕』という題名の単行本が出版されています。僕はこれを読んでいます。しかし内容はあまり記憶になく、読んだことだけは覚えていました。この新聞記事に接して、書棚を捜してみると確かに李さんの初版本が置いてありました。そう、だから28年振りに再びこの『由煕』を読んでみたわけです。

    Atacched File      Atacched File      

李良枝さんは日本名田中淑枝と言い、1955年山梨県の西桂町に兄二人、妹二人の長女として生まれ、4歳で西桂町から富士吉田市に移り住みます。父は1940年、15歳の時に済州島から渡日し、船員や絹織物の行商などをしていて、富士の麓に居を構えたようです。西桂町も富士吉田市も当時は絹織物が盛んでしたので、この地に住み着いたのはその関係だったのでしょう。1964年、東京オリンピックの年に両親は日本に帰化しています。李さんは未成年だったので、自動的に日本国籍をもつことになったが長兄は日本帰化に反対していたようです。下吉田中学校、県立吉田高校に進み、ここは僕と同じですが、李さんは高校3年に進級してすぐに中退しています。両親の不和が別居から離婚裁判に進んでいたことは関係していたでしょうし、李さんは何度か家出を繰り返し、京都に行き、観光旅館にフロント兼小間使いとして住み込んだようです。旅館の主人の懇意で京都府立鴨沂おうき高等学校3年に編入し、日本史の教師片岡秀計先生との出会いを通して、自分の血、民族のことを考え始めたようです。文学碑建立の実行委員長を務めた山下淳子さんは、小学校から吉田高校までを同級生として過ごし一番の仲良しだったようで、「二人ともジュリー(沢田研二)とビートルズが大好きだった」と。中学生の時「淳ちゃん、わたし朝鮮人なんだよ」と打ち明けられ、高校時代には「私はここにいたらだめになる。日本の象徴の富士山を私はすきになれないの」と言っていた、と。京都府立鴨沂高校って、ジュリーの出身母校(ジュリーは中退ですが)ではなかったか? 

1975年20歳で早稲田大学社会科学部に入学しますが、一学期で中退したようです。自分の居場所は日本にはなく、韓国にあるという思いが強くなっていきます。伽耶カヤグム(韓国の琴)に出会い、韓国舞踏も習い始める。

1980年に長兄を、1981年に次兄をそれぞれくも膜下出血と脳脊髄膜炎で亡くし、1982年彼女はソウル大学国語国文科に入学します。しかし入学と同時に休学届を提出し、日本とソウルとを行ったり来たりしていたようです。1982年両親は正式に離婚となり、この年『ナビ・タリョン』を群像に発表。こうして李さんは小説作家としての道を歩き始めるわけです。それから次々と小説が発表されていき、『由煕』が芥川賞を獲得するのが1989年ですから、書きに書いたという印象です。ソウル大学は1984年に復学し、1988年に卒業しています。

李さんの母語と母国語をめぐる格闘は『由煕』によって一つの終息をみたようです。『私にとっての母国と日本』というソウルで行われた講演は李さんの辿ってきた茨の道のりをみごとに集約しています。「まことに、母語つまり幼かった頃の、母親から聞いて耳にこびりついてしまった言葉というものは、まるで暴力的といえるくらい人間の思考を支配し存在を左右することになるという事実を、逆説的ですが母国へ来て、とりわけ母国語の海にもひとしい国文学科へ入って実感させられたのです」「とりわけ言葉というものは、それを使用する人間の存在すべてと深い関わりがある、言い換えるなら感受性のすべての産物であると同時に、感受性のすべてを支配し拘束する、まるで生きている生命体のようなものですから」

 李さんはアイデンティティを巡った葛藤を強く抱いていましたが、この葛藤は朝鮮人と日本人、母国語(韓国語)と母語(日本語)という対立という形をとりました。私って誰? 私って何者? 生きる意味があるのかないのか? というアイデンティティを巡った葛藤は思春期や青年期には特徴的なものですが、李さんはその出自からか母語と母国語、母国語と母語という葛藤となりました。

 ある一人の患者さんの話をしましょう。僕の外来を訪れたとき、彼女は19歳でした。意味もなく泣いたり笑ったり、幻聴があるのか一日中一人でしゃべっているということが主訴でした。病識はなく、家族に連れられての来院でした。朝鮮学校に通っていて、小学校の途中から拉致問題などのために日本の学校に通ったとのことですから、在日韓国ではなく朝鮮人だったのかもしれません。「女の子がいて、大丈夫大丈夫?」と言ったの、「白人と黒人がいて、黒人が悪さをするから、白人がやっつける」「だから私たちは静かに暮らさなくてはいけない」と。彼女も在日ということで重い足枷を負っていたのかもしれません。しかし葛藤を葛藤として抱えることのできない彼女は、妄想の中でこの葛藤を処理しようとしていたのでしょう。

李さんもまたこの彼女と同じ葛藤と格闘していたのでしょう。いやいや李さんは葛藤を葛藤として抱いていた分、その苦悩はずっと大きかったように思います。わけも分からないままに行動によって処理されていたものは徐々に言語化され葛藤という形に結実し、その葛藤が昇華されていくその様子は李さんの代表作品の中に描かれています。さあ、『刻』『由煕』を紐解いてみましょう。

『刻』は主人公の一日を細かく辿るという形の小説です。こういった形はジェイムス・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどの手法に近いものがあり、決して珍しいものではありません。主人公は在日韓国人で、ソウル大学に留学しています。在日同胞は「民族的主体性を確立できないまま、悶々として」きていて、母国留学を決意しウリマル(母国語)を学ぼうとします。主人公はどうやら留学に際してパトロンがいるようで、一人は日本でお世話になった医者の藤田先生、もう一人は交換教授で東京に来ていた崔教授。崔教授は数か月して韓国に帰り、主人公はその後を追うようにして韓国を訪れ、留学を決意する。

         Atacched File   

韓国語と伽耶琴を必死に学ぶ主人公。しかし原ちゃん(在日学生は本国の韓国人を「原住民」とか「原ちゃん」とか呼んでいる)たちとの交流はうまくいかず、またなかなか母国語の修得のうまくいかなさが描かれます。「在日同胞だからって、日本語しか話せない自分を正当化したくはなかったわ。私は出自の特権を認めない。韓国語にも決着をつけなければ、自分の日本語にも決着がつかないと思ったの」と主人公に言わせていますが、まさにこれは李さんの心境だったのでしょう。主人公には手を洗いたいという強迫症状があります。粘ついた手が不快、うがいをしたい、「ストッキングも脱いで足もきれいに洗いたい」洗っても洗っても落ちない汚れ、身体に染み付いた落ちないもの、主人公は、そして李さんはそれに苦しめられていたようです。何とか拭えないものか、その飽くなき努力と苦闘が李さんだったかのようです。「在日同胞の差別問題は深刻です。韓国人は、日本人の生活をしなければ日本の社会で生きていけないんです……」

『由煕』という小説には李由煕は登場しません。『刻』と同じくソウル大学に留学した在日学生の由煕はやっとそこで暮らせそうな下宿に巡り合います。下宿の女主人のオンニとその姪のアジュモニが由煕を大事に扱い、ちょっとづつでもソウルに馴染めるように尽力します。しかし由煕は大学の学科に付いていけず、日本に帰ることになります。アジュモニが飛行場に見送りに行くかどうするかと迷いながら、由煕との出会いから別れを回想的に綴る小説です。

「由煕が書く日本語と韓国語の二種類の文字は、両方とも書き慣れた文字という印象を与え、またどことなく大人びていたが、やはり由煕そのもののように不安定で、不安気な息遣いを隠しきれずにいるようだった。」「文字には表情があった。」

「アジュモニとオンニの声が好きなんです。お二人の韓国語が好きなんです。……お二人が喋る韓国語なら、みなすっとからだにはいってくるんです。」

確かに『刻』に比べたら『由煕』では戦々兢々とし続けた緊張感や殺伐とした希望のなさは若干影をひそめ、やわらかさが伝わってきます。完成度から言えばやはり『由煕』ということになるでしょうか? それにしても、『刻』の主人公は直接的には登場しない人物(藤田であり崔教授であり)によって動かされていて、『由煕』もまた主人公は登場せずアジュモニによって間接的に描かれていますが、それはどうしてなのでしょう? 「治療とは何と不確かで無責任で傲慢な言葉だろう」と由煕に語らせていますが、どうやら李さんは外側の存在によって語られ、構成されてしまっていたようで、そういった存在の仕方や生き方をずっとずっと否定しようとしてきたのではなかったのか。つまりそうだからこそ「治療行為」をこんなにも拒絶しようとしているのではないか?

 しかしこの長くて、また短い苦闘の末、李さんはどうやら落ち着くところに落ち着けたようです。講演『私にとっての母国と日本』の中で李さんは、「十七年ぶりに対面する富士山を前にして私は、新しい自分と向き合っていることにも気がつきました。」と話しています。李さんは、そう葛藤をワークスルーしたのです。だから李さんはもう日本人でも朝鮮人でもなく、日本人であり朝鮮人なんです。しかし李さんがこの境地に達するのも束の間、病が忍び寄り、Atacched File 37歳の若さのままにこの人生を駆け抜けていってしまいました。

 李さんは『刻』の主人公に「生活の幅は、必ず政治の幅からはみ出てしまう、ということよ」と言わせていますが、確かにその通り、時代は替わりました。『冬のソナタ』に代表される韓流ドラマの日本での大流行、サッカーワールドカップの日韓同時開催等々、私たち民衆の動きが政治のずっとずっと先を行っているように思えます。この動きは大事にしたいものです。朝日新聞でこんな短歌を見つけました。

  母国語と母語を隔てる日本海一度も越えず霞むふるさと (神戸市 康 哲虎さん)

今年のノーベル文学賞はカズオ イシグロさんが受賞しました。イシグロさんは海洋学者のお父さんがイギリスの研究所に招聘されたため5歳で長崎からイギリスに渡り、いつ日本に戻るかを楽しみしながら結局イギリスの大学を出、1983年にイギリス国籍を取得しスコットランド出身の女性と結婚しています。また中上健次さんの下で李さんと一緒に活動していたリービ英雄さんもアメリカ出身ですが日本で小説を書いています。多和田葉子さんはどうでしょう? もう時代は国際的に、世界を股に掛けて活躍するのが当たり前になっているのでしょう。

しかし一方でヘイトスピーチに代表される差別は続いています。2016年9月のこのコラムで取り上げた『ジニのパズル』でみたように確かに差別の仕方と差別される側の意識は変わってきています。

①    あからさまな、露骨な、暴力的な差別・排除 

②    李さんのような、内在化された(ユングであれば「集合的無意識」と呼ぶのでしょうか)差別・排除によるアイデンティの危機 

③    差別・排除に対して闘ったり、あるいは差別・排除を受け入れながら新たなアイデンティティを確立していくあり方(イシグロさんがこれに当たるでしょうし、大多数の現代人がこれでしょう)  

といった変化が時間軸に沿って生じているのかもしれません。しかしまあ小難しい話はひとまず置いておいて、人がいる限り、いやいや生き物に必然的に付きまとうのが差別・排除なのだと言っておきましょう。そうだからこそ私たちは差別し、差別される自分を自覚する必要があります。

 久しぶりの故郷には懐かしさが溢れていました。見知った家並みは秋の日差しにキラキラと輝いていました。11月のこの日は秋風がそよぎ、空気は澄んでいました。富士山はちょっと霞んでいましたが、その全貌を見ることができました。新しくできた急な階段を外国人観光客がソフトクリームを食べながら何人もゆっくりと登っていました。かつては考えられなかった光景です。この田舎町にも国際化の波がちょっとだけ寄せています。

   Atacched File       Atacched File     

    <光が眩しすぎて、写真がうまく撮れませんでした>     

李さんのハングル文字と一緒に「愛、人、生」と刻まれた碑は、富士山のとっても奇麗にみえる場所に設えられていました。この地で母語と母国語のはざまで葛藤した女性が、母語と母国語とを縦糸と横糸にして織り込んだ織物のようにこの地に根を下ろしています。

僕は碑の前に暫し立ち続けていて、「あれ、これって誰の碑なの?」と問い掛ける観光客に「ああ、これはイ ヤンジさんの碑なんです」「イ ヤンジさんは 云々…」とかガイドになって、碑の説明と眼下に見下ろす故郷の市街と、そして富士山について思いのたけを説明していました。

日本と韓国とを早足で駆け巡った李さん、どうぞこの地で富士に抱かれてゆっくりとお休みください。遅ればせですが、李さん、どうもありがとう、 カムサハムニダ ‼