コラム

  

   『君たちはどう生きるか』 —— 活字とアニメ、映像について ——  2018/6/3 記

『君たちはどう生きるか』は、ある意味リバイバルです。ただし原作は岩波文庫で出版されているように、活字を媒体にして世に出たわけです。人生論とか哲学書の範疇に入るのでしょうか? しかしどうでしょう、吉野さんの原作を羽賀さんが漫画化して世に問うたこの本は、見事に成功しているではないですか! 活字離れといえばそれまででしょうが、そうではなく私たちに訴え易い媒体は時代とともに移り変わるのは必然でしょうし、これだけアニメが時代を席捲しているからにはそれだけの理由があるのでしょう。

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芳賀版『君たちはどう生きるか』はアニメーションで主人公の日常が描かれています。かつての時代が取り扱われていて、微妙に現代とは違っているのですが、それでも私たちは親近感を感じます。漫画の主人公には私たちは同一化しやすいのかもしれません。主人公が生活を送る中で疑問に感じたことや気づきが、文字を通して語られていきます。それは叔父さんの言葉であったり、主人公の考えた感想であったりします。活字が登場人物の精神活動を表現するように仕組まれています。アニメが介在することによって、私たちはこの幾分難解な本に近づきやすくなったと言えそうです。

 アニメーションが映画化された、いやアニメーション映画の『君の名は』はどうでしょう。この映画はジブリの作品を越えて、ついに行きつくところまでいったのかというのが正直実感です。2016年に公開されたこの映画はいろいろな記録を塗り替え、大ヒットとなりました。東日本大震災後の日本を、そこに生きる若者はその自然の猛威を過去のこととして葬送し、生きる。自分だけの恋愛を、すべてであるかのように…。それが過去との必然的な結果であったとしても、それを無視して今を生きる。

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RADWIMPSの曲のように、今がすべてである、と。それにしても若者たちは、繋がりや絆をとても大事にします。それはそれでいいのですが、一方で一人でいることが寂しかったり、辛かったりするのでしょうか? それは困ります。しかしこのパーソナルな映画を観ることによって、皆が繋がれたという実際があるのでしょう。ビート タケシさんが言うように映画は総合芸術なので、アニメの映像だけでなく、それが動くこと、そして音楽が加わり劇的な効果を上げていることによって、『君の名は』はいまの日本を代表する共通事象になり共に体験し、味わうことによって、私たちは繋がれたわけです。それはとても凄いことだと思うのです。ただ誤解のないように一言触れておくなら、単に繋がることの大切さではなく、一人でいるからこその繋がることの大切さなのです。

 アニメーションは容易に、いやいや容易にではないでしょうが、私たちを別個の世界に引きずり出してくれます。時間や空間を超えることに文字だけの世界よりも優れて、迫真的かもしれません。そして映画の世界は更に映像の力と音楽や音声の力を借りて、もっともっと現実味を増していきます。

しかし本当にアニメや映像の世界は文字の世界よりも優れて迫真的なのでしょうか? ノーベル文学賞を受賞したカズオ イシグロさんの『わたしを離さないで』にはいたく感動したのですが、この原作の映画化、映像化はどうだったでしょうか? 私は、イギリス人監督によって映画化された同名の映画と、森下桂子さんによって脚色されてテレビ放映された同名のテレビ ドラマの二つを観てみました。森下さんは『仁』や『天皇の料理番』の脚本で、みごとな腕前を示してくれました。『仁』の大沢たかおさんの時を超えた存在感はすごかったし、『料理番』の佐藤健さんの、おそらくADHDのある主人公の微に入り細に入りの描写は優れていて、私はすっかり森下ファンになっていました。カズオ イシグロの登場人物トミーもおそらくASD+ADHDを患っていて、それを森下さんは三浦春馬さんに演じさせようとしました。そして主人公は綾瀬はるかさん、そのライバルが水川あさみさんというキャスチングをとりました。

 

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彼らの演技がどうのではなく、このドラマ化は失敗だったと僕は思います。それはどうしてかと言うと、この奇妙な何処にもない場所で起こった奇怪な出来事を私たちに慣れ親しんだ俳優によって演じさせるのには無理があるように思えるからです。私たちは既に綾瀬さんや水川さん、そして三浦さんに対して自分の中でこれまで見聞きしたことからイメージを膨らませてしまっています。だからそれを白紙にしてこの奇怪な物語を見ることはできないのです。一方で、イギリスで制作された映画は違和感なく、イシグロ ワールドを描写してくれています。クローン人間という特殊な状況を演ずるには、私たちにとっては知らない人たちの方がいいのではないか? だからイギリスで創られた映画は、俳優も恐らくイギリス人でしょうし、私たちには初めての体験として味わうことができ、衝撃を受けることができたのです。 

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 カズオ イシグロさんのことをもう少し取り上げてみましょう。 「文学自然教室」の中で、イシグロさんは語ります。『わたしを離さないで』は世界40ヶ国で翻訳された、と。イシグロさんは常に「何故、小説を読みたいのか?」「何故、小説を書きたいのか?」を問います。当初は日本的なものを書き、周りからも「日本を不思議な国」と受け取られ、「日本じゃない要素を書こう」と思いたち、「普遍的なことを書く作家として認識されたく」て、「記憶」」へと思い至ったようです。そして「映画ははっきりし過ぎている」と言い、記憶については一枚の写真のように覚えていて、「片隅とかが曖昧」で、「記憶は信頼のおけない曖昧なもの」と言います。映像記憶を持つ人々がいます。彼らは過去のことを映像として微に入り細に入り刻銘に覚えていて、再生することができます。しかしこういう人は稀であって、私たちの記憶はイシグロさんの言うようなものなのでしょう。そして『脳の意識、機械の意識』(中公新書 2017)で渡辺正峰さんが言うように、私たちは「見たいものを見ている」のです。必然的に「見ること」に私たちは主体的に参加しています。

 

 

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『日の名残り』は映画の方が評判になったのかもしれません。あるいはカズオ イシグロの作品の映画化ということで、一世を風靡したのかもしれません。なにせ、アンソニー ホプキンスとエマ トンプソンという二人が主演の映画ですから。原作の小説と映画とは決定的な違いがあります。原作である小説では、「私」スティーブンスが短い旅に出て、長年仕えた主人ダーリントン卿への思いや、ミス ケントンとの全くもって気づかない恋情を、スティーブンスのナレーションによって描くわけです。ですから主人公であるスティーブンスの一人よがり的な描写が出てきても不思議がないわけです。それが映画となるとエマ トンプソン扮するケントンの視点で描かれますから、原作とは大いに違った視点となります。アンドレ ジッドが言うように、愛する人の心のうちは分からないのです。その意味で言うと、原作と映画とは両主人公の思いを相補的に埋め合わせるというかたちで両立しているのかもしれません。この両者に限って、原作と映画とどっちが良かったか、という問いは成立しないように思えるのです。つまり映画ではミス ケントンにナレーションさせることによって、原作の忠実な映像化ではなくオリジナルなものとして再び作り上げたのです。ですからこれは『君たちはどう生きるか』と同じ試みなのです。だからこそ映画も人々に受け入れられたのでしょう。

      Atacched File「見ること」に私たちは主体的に参加していると書きました。『脳の意識 機械の意識』で渡辺さんは「低次の視覚部位から高次の視覚部位へと視覚信号が流れるのみならず、その逆、高次から低次への逆行性の視覚情報の流れも存在する」と記しています。視覚だけでなく、活字や文章についてはどうでしょう。主体的にという点では、「読む」ことは「見る」こと以上なのでしょう。文字は極めて抽象的・象徴的なものです。「読む」ことはこの象徴的なものを読み解くことですから、必然的に私たちはパーソナルな素材を重ね合わせています。「読む」作業の中で、私たちの意識・記憶・感覚そして認知を、つまりは精神活動全体を活性化させています。

これまでの文章をまとめてみましょう。

   ①活字だけの出版物に漫画(アニメ)が加わることで、分かりやすく親しみ深くなる。

 ②アニメの世界は抽象化、戯画化する作用が強いので迫真的であるが、一方realityに乏し

  くなる。

 ③映像の世界は具体的・具象的で、直截的であるので、訴える力は強いが、観る側の想像

  を搔き立てる力は、アニメや活字に比べて弱い。見たいものをみるという形で私たちも

  主体的に参画しているが、一回性という縛りがある。

 ④活字・文章は読み手のペースに合わせてくれて、反復可能であり、途中で休むこともで

  きて自在である。もちろんアニメも映像も、DVD等の普及により同様の利点はある

  が…。活字は抽象的・象徴的であって、具象的・直截的ではないので、「読む」ことは

  常に想像力を搔き立てられる。「読む」ことは「書く」ことでもある。

 活字、アニメ、映像と比べて来ましたが、どの媒体が優れているかではなく、媒体の違いによって描写される世界は違った顔を持つわけで、それぞれの違いを楽しむことができます。映画は原作を読んでから見るか、見てから読むか、あるいは見るだけ読むだけなのでしょうか? どのような世界を描きたいかによって、どの媒体を選ぶのが最適かは決まってくるのでしょうが、どうやら現代はものを書く作者が映像化するために書いているといった、映像の時代のように思えます。